2003年、Jリーグのジェフユナイテッド市原の監督に就任したイビツァ・オシムと選手たちが初めて対面したのは、韓国のキャンプ地だった。開幕まで3カ月を切って決まったこの新監督のことを、選手たちは知らなかった。所信表明のスピーチもせず、ミステリアスな雰囲気を漂わすオシム。だが、翌日から選手たちは、壮絶ともいえる練習でオシム流のサッカーを叩き込まれる。
走りが中心のメニューはまるで高校時代の部活動で、練習試合で負けると罰走させられる。フルコートでの3対3も、一時でも足を止めることが許されない。休日は前日になるまで知らされず、選手から不満があがるとオシムはこう返した。「君たちはプロだ。休むのはオフになってから、あるいは引退してからで十分だ」
指示されたメニューを漫然とこなすのではなく、創意工夫することを選手たちに求めた。意図を理解していれば、監督の指示と違うことでも、何をしてもよかった。吐き気がするほど苦しい練習に最初は選手たちも反発したが、チームは確実に変化していた。リーグ戦を連勝でスタートすると、その後も快進撃を見せる。
前年度リーグ7位のジェフが首位に立ったころには、マスコミの注目度も高まり、同時に会見でのオシムのエスプリとウィットに富んだ受け答えに関心が集まった。
「サッカーとは危険を冒さないといけないスポーツ。それがなければたとえば塩とコショウのないスープになってしまう」
「サッカーの試合とは絶対にひとりでは成立しない。君たちの人生も同じじゃないか」
「ライオンに追われたウサギが逃げ出す時に、肉離れをしますか? 要は準備が足らないのです」
ときに厳しく、ときにユーモアを交えながらサッカーを題材に哲学を語り、人生の真意をつくオシムの言葉が、人々の心に刻まれていった。
オシムは1941年5月6日、ボスニアの首都サラエボに生まれた。ボスニアは多民族地域で、なかでもサラエボは、セルビア・クロアチア・ムスリムの3民族が融和した都市だった。戦後復興の貧困のなかで、オシムは他の子供たちと同様にサッカーに興じ、13歳で地元のクラブ、ジェレズニチャルに入団する。学業も優秀、特に数学に秀で、サラエボ大学から教授の誘いもあったほどだったが、経済的な理由からプロサッカー選手の道を選んだ。
プレーヤーとしてのオシムはドリブルの名手と謳われ、ユーゴ代表として東京五輪にも出場、日本を相手に2ゴールを上げている。1970年からはフランスリーグで活躍し、78年の引退とともに祖国ボスニアに戻った。
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