瀧本氏は、大学で教鞭を振るってはいるものの、エンジェル投資家や経営コンサルタントという立場上、基本的には表に出ないようにしていた。しかし最近の日本の状況を見て、裏方で動くよりも、表に出て積極的に人を支援しなければならないと感じ始めた。
特定のリーダーをぶち上げて、その人が世の中を変えるという「カリスマモデル」は、なかなかうまくいかないものだ。たとえばオバマ大統領も、就任当時はそのカリスマ性に期待が集まった。だが8年経過しても、依然として大きな成果を出せていない。
「すごい人がすべてを決めればうまくいく」というよりも、「皆がそれぞれ自分で考えて世界をつくっていく」というほうが、本来あるべき姿なのではないか。だからこそ瀧本氏は個を変えるため、意見を「ばらまく」ことができる出版に力を入れるようになった。
資本主義、自由主義、民主主義――これらをきちんと成立させるために共通して必要なのが、自分で考え、自分で決めることである。すごいリーダーを一人担ぎ上げるより、世の中を変えてくれそうな人をたくさんつくる。誰がうまくいくかわからないなかで、そういう人たちに「武器」、すなわち教養を与え、支援するような活動をした方が、世の中を変えられるのではないか。それが瀧本氏の思い描く「武器モデル」だ。
ただし教養といっても、本を読むだけではあまり意味がない。「本を読んで感動したが、翌日には忘れて元のままの生活を送る」というのはよくある話だ。それではまったく意味がない。
だからこそ瀧本氏は出版した後、実際に本を読んでどれぐらいの人が行動を起こしたかを常にベンチマークしている。100万部売れても誰ひとり動かないよりも、たった10部しか売れなくてもその10人が大きな仕事をして世の中を動かすほうが、よほど価値は大きい。
教養の役割とは、「他の見方、考え方があり得ることを示すこと」だ。一見すぐ役に立ちそうにないこと、目の前の事柄とは無関係に見えることが、じつは物事を考える際の枠組みとして非常に重要になってくる。
学問や学びの目的というのは、答えを知ることではない。先人たちの思考や研究を通して、新しい視点を手に入れることにある。わかりやすい答えを求める人向けに、インスタントな教えやノウハウを提供することは容易だが、それだとほとんど意味がない。
そもそも「どこかに絶対的に正しい答えがあるのではないか」という考え自体を放棄すべきだ。バイブルとカリスマを安易に信用してはならないし、もちろん瀧本氏自身の言うことも絶対と捉えるべきではない。絶対的な「人」や「もの」に頼りたくなる気持ちは理解できるが、その心の弱さに負けてはいけないのである。
とはいえ考えるためには、どうしてもなんらかの「枠組み」が必要になってくる。その枠組みこそが教養、リベラルアーツだ。自分自身を拠り所とするためには、教養を真に学ぶ必要がある。
じつは私たちが普段日常的に使っている言葉には、すさまじい力が秘められている。その力を知り、とことん磨き上げるべきだ。
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