「失われた30年」と呼ばれた平成において、トヨタ自動車は国内で最も時価総額を伸ばした。ある役員は、「豊田章男は突然変異ですよ」と評する。世界一に上り詰めたトヨタを牽引する豊田章男(以下、章男)とはどんな人物なのか。
豊田章男が名古屋市に生まれたのは1956年。利かん気が強く、腕白でやんちゃな子供だった。こうした気質こそが、今に続く章男の本性といえるのかもしれない。幼少期からイジメに遭うなど、「御曹司の宿命」を背負い、ときには孤独な心の葛藤と戦うこともあった。
そんな章男は1975年に慶應大学法学部に進学し、ホッケー部に所属。「何事にも考える前にまずやってみる」という体育会系の行動パターンの影響を強く受けた。そして、日本代表としてアジア大会に出場するほどの実力を蓄えていく。
大学卒業後は、MBA取得、投資銀行勤務を経て、27歳のときにトヨタに入社。章男は本格的に御曹司の宿命を背負うことになるが、持ち前の気の強さで乗り越えていく。また、人にも恵まれた。工場勤務や財務部で、当時の上司は厳しく章男を鍛えたのだ。
その後、営業部門に配属された章男が進めたのが、工場の外にまでジャスト・イン・タイムを広げることだった。そのための手段としてITに注目。中古車販売サイト「GAZOO」を立ち上げたのだ。ここで培ったノウハウは、現在トヨタが掲げている「モビリティカンパニーへの転換」につながっている。
章男には、トヨタ自動車の社長という公の顔のほかに、「モリゾウ」というドライバーとしての顔がある。きっかけは、テストドライバーへの挑戦だ。46歳で配属された技術部門で運転訓練をおこない、世界一過酷なモーターレースといわれる「ニュル24時間レース」にも出場した。このときに名乗ったのがモリゾウだ。過酷なレースに章男が出場するとなれば、バッシングを受けかねない。だが、モリゾウであればその隠れ蓑になる。
章男がモリゾウの名前を使うのは、レースだけではなくなった。章男がトヨタ社長という鎧を脱ぎ捨てたとき現れる、1人のクルマ好きがモリゾウとして体現されるようになったのだ。モリゾウにとってレースは、「もっといいクルマづくり」を、現地現物で確認する場である。章男は、社長とモリゾウという2つの顔を使い分けることで、最も厳しい時代のトヨタのトップを務めているようにも見える。章男の隠れ蓑にすぎなかったモリゾウは、逆に章男の素を引き出す役割を担うようになった。モリゾウの持つ意味は変化し、その存在感は大きくなっている。
章男は豊田家のルーツを大切にする。その始まりは、自動織機を発明した豊田佐吉に遡る。佐吉がつくった豊田自動織機製作所は、息子の喜一郎が自動車部をつくったことで、今日に続くトヨタ自動車の礎となった。章男は佐吉や喜一郎を尊敬し、彼らに倣いたいという思いが強い。
章男が経営者としてつねに立ち返る原則として、「豊田綱領」がある。豊田綱領は、トヨタグループの創始者である佐吉の考え方を整理したものだ。章男の経営における、危機対応や新たな取り組みは、豊田綱領に忠実に基づいて判断されていたことがわかる。1935年に発表された豊田綱領は、長らく改定されずにいた。しかし、1980年代以降、グローバル化といった経営環境の劇的な変化をうけて、世界共通の理念が必要となる。そこで1992年に、7カ条の基本理念がまとめられ、1999年には「トヨタウェイ2001」の編集が着手された。不確実な未来を前に、トヨタグループをまとめ上げるうえで、つねに立ち返るべき原理原則を堅持することは、これまで以上に重要となる。だからこそ、創業の精神を刻む豊田綱領を章男は大事にしているのだ。
豊田家にとって、14年ぶりの豊田の姓を持つ新社長の誕生は待望といえた。しかし、トヨタの世襲劇は初めから波乱含みだった。100年に一度といわれたリーマン・ショックがトヨタを襲ったのである。
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