仏教を興した釈尊の根本的教理とは、「自分」は存在しないという教え、すなわち「無我」である。
「手を見てください。それはだれの手ですか」と問いかけてみると、聞かれた人は必ず「自分の手です」と答える。「いまあなたが言った自分という言葉に対応するものがあるでしょうか」と再び問いかけると、相手は困った顔をするだけで、答えが返ってくることはない。なぜなら、「自分」という言葉が指し示すものを発見できないからだ。
あるのは「自分」という言葉だけなのに、あたかも自分というものが存在するかの如くに思い、すべての行動の主体、主人公としてとらえるのは自分本位なことである。静かに心の中を観察すると、存在するのは唯だ(ただ)手、足、身体、あるいは心の働きだけだ。これを自分のものと誤認しているという事実を認識することから、仏教理解が始まるといっても過言ではない。
身心を構成する諸要素があるだけで、それらから構成される我(自分)が存在しないゆえに無我なのだ。そして、この「唯だ」あるのはなにかという探究をとおして、すべての存在の構成要素が心の中に認識されて初めて成立するとしたのが、「唯識」という思想である。唯識とは、「唯だ識、すなわち心だけしか存在しない。自分の周りに展開するさまざまな現象は、すべて阿頼耶識(あらやしき)から生じたもの、変化したものである」と主張する思想だ。すべては心の中にあり、心の外にはものはない。
私たちは1つの共通の宇宙に住んでいると思っている。しかしそれは、人間同士が言葉で語り合うことで、「ある」と認め合った抽象的な存在に過ぎない。
朝、目を覚ますと、その人の宇宙がいわばビッグバンを起こして再び生じる。個人が毎朝経験するこのビッグバンによって生じた宇宙には、決して他人が入ってくることはできない。この「一人一宇宙」を〈人人(にんにん)唯識〉という。3人いれば3つの世界がある。たとえば「そこに1本の木がある」と3人で言い合うとき、3人の外に実在する1本の木があるのではなく、一人ひとりの心の中にある木の影像(観念)があるだけである。3人が言葉をとおして、あたかも1本の木があるが如くに認め合っているにすぎないのだ。
一人一宇宙だから、その個人の気分がすぐれなければ暗い世界となり、うれしいことがあれば明るい世界に変わる。私たちは、自分の心の中にある一宇宙に閉じ込められていて、そこから抜け出すことはできない。
「感覚」が感じとったものを「思い」で色づけし、「言葉」として語ることで、心が織りなす世界をはっきり認識できる。たとえば、誰かに対して私たちは憎いという「思い」を生じさせ、「あの人は憎い人だ」と「言葉」で決めつける。その人そのものは本来はいわば無色の人なのに、キャンバスの絵が色付けされていくように、私の思いと言葉によって「憎い人」になるのだ。
世界はもともと無色だった。
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