学者は何でも覚えていて、頭がいいと思われがちだが、大量の知識だけを積み上げて記憶したハードディスクのような存在になりがちである。ハードディスクだけでは、価値は生み出されない。CPU(中央処理装置)がハードディスクの中にある情報を計算することで、はじめて「価値」が生み出されるのだ。
情報や知識をどのように使い、どのようにつなぎ合わせて活用するかという、CPU的な思考こそが、本当の意味で賢いということ、価値あることである。
今、求められているのは、CPU的なアタマの良さ、賢さである。インターネットやスマホが普及したことで、誰もが世界のあらゆる情報に、瞬時につながることができるようになった。その結果、「何でも覚えている」「よく知っている」ことの強みはなくなり、「知識」の価値は急落した。
一方、グローバリゼーションの進展やAI、ロボティクス技術の発展は、これまでの当たり前を変え、環境を激変させている。過去問をひもといても正解が載っていない世の中においては、過去の蓄積でしかない知識だけでは太刀打ちできない。知識や経験を組み合わせて考える、CPU的なアタマの良さが必要になっているのだ。著者は、このCPU的なアタマの良さを、考える力としての「教養」と呼ぶ。
かつては、「頭がいい」とは記憶力に長けた人のことを指す言葉だった。日本は、明治維新以後、欧米列強にできるだけ早く追いつく必要があったため、とにかく欧米の知識を詰め込む、暗記重視のコスパの良い促成栽培の教育が重視されてきた。これによって、大学教育の大衆化というメリットが生じ、大勢の知的労働者が生み出されることで、戦後の日本経済の成長につながった。
問題は、日本がそのまま、学びの形を変えられなかったことである。「覚えなさい」と言うのは、「考えなくていいですよ」と言っているのと、ほぼ同じだ。斬新でユニークな発想やひらめきを押し殺すことがこれまでの教育であり、今に続く「失われた三〇年」は、促成栽培が限界を迎えた証拠なのだ。
最近、「教養がブームだ」と言われているが、多くの人が身につけたいと思っている教養は、単に知識を詰め込んだ、旧来型の暗記教育に近いものではないだろうか。ネットで引き出せる薀蓄を教養と呼ぶのは、あまりにも無教養である。
インターネットは、情報を「覚えることの価値」を下げると同時に、「より強い偏向」を生み出す側面がある。グーグルやフェイスブックは、ユーザの興味や趣味、嗜好を探り出し、パーソナライズされた広告を表示する技術を持つ。この情報の最適化は、「考えない人間」をつくる仕組みとなるだけではない。自分と同じ思想、立場のニュースばかり覗く人に同じような情報を「オススメ」するようになることで、自分と同意見のインフルエンサーやフォロワーに囲まれる環境を作り出す。
著者の両親は、和歌山の商店街で小さな商店を営み、義務教育しか受けていなかったが、著者は大学まで行った自分よりも、よほど教養があったと感じている。それは、人としての正しい軸を持ち、自分の頭で考えていたからだ。
今のように情報があふれていなかったからこそ、自分の頭で考えざるを得なかった時代でもあった。裏を返せば、誰でも、どこにいても、自分の頭で考えて、これからを生き抜くための教養を身につけられるということではないだろうか。
著者が大学の授業で力を入れているのは、学生たちの「考える力」を伸ばすことだ。
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