スピノザは1632年に、アムステルダムのポルトガル系ユダヤ人共同体に生まれた。この共同体は、15世紀末の文化的黄金期にあったスペインでカトリックへの改宗を命じられた上に迫害を受け、ポルトガルを経由してアムステルダムに逃れてきた「改宗者」たちの子孫で構成されていた。そのため、イベリア半島の文化を受け継いでおり、日常生活ではポルトガル語を、文化的言語としてはスペイン語を用いていた。スピノザは、スペイン、ポルトガルの文化的遺産、カトリックの痕跡、カルヴァン諸派との対話、ユダヤ人としてのアイデンティティといった、独自の世界である共同体で育ったのだ。
スピノザは商売をする家に生まれて学校に通い、父の仕事を手伝ったのち、弟とともにそのあとを継いだ。1656年、哲学的な観点からユダヤ教における法に疑いを向けた咎により異端とされ、ユダヤ人共同体から破門される。
それから5年間の足どりは定かではないが、この期間に科学的な知識を吸収し、ラテン語世界の教養をマスターして、デカルト主義的かつ非ユダヤ的な世界との交流を深めていったようだ。人々から無神論者、有害な人物と批判されながらも、スピノザは草稿の執筆を続けた。1663年に『デカルトの哲学原理』を、1670年には匿名で『神学・政治論』を刊行している。1675年に『エチカ』の出版を試みたが「無神論の証明をしようとしている」との噂がたったことにより断念、1677年におそらく肺結核のため44歳で死去した。遺稿は友人たちによって整理され、その年末に刊行された。
スピノザはいつも、時間が足りないと嘆いていた。生前に完結したものとして実際に出版されたのは『神学・政治論』のみであり、それも改訂版を出すには至らなかった。スピノザにとって、著述という作業は最高度の明晰性を不断に追求するものであり、著作から曖昧さを完全に排除するための戦いに終わりはなかったのだ。本要約では、本書で解説されているスピノザの著作のうち、2点を取り上げる。
『神学・政治論』というタイトルは、神学と政治の対比を主題とするという意味ではない。哲学する自由は、敬虔の領域としての神学と、国家の平和・安全を損なうものではなく、むしろそれらにとって非常に有益であることを示そうとしたものだ。哲学する自由とは、スピノザの時代において、理性を用いて諸科学を探究し、偏見を持たずに自由に論じることを意味していた。自由を擁護するのは、特に宗教的な観点から、自由に反対する者がいたからである。
この著作はタイトル通り二部に分かれている。
第一部では敬虔について論じられ、敬虔が守られるための限界を明らかにする。そのために、まず預言などの啓示の「伝達」手段が分析され、次に聖書を考察する。そして最後に、神の言葉と哲学する自由との関係が定められている。
預言者は論証なしに真理を主張する点で、理性的な言説と相違がある。それは理性に訴える「知性の人」とは異なり、正義と愛を抱くよう人々に説く「表象力の人」なのだ。したがってその表現は実践的な論点にのみ関わっており、数学や政治など理論的な認識は語っていない。
しかし哲学に敵対する者は、預言は理性を超越しているとして、純粋に理性的な議論を拒絶するだろう。だからスピノザは、聖書の中に知性に属する部分を求めた。聖書は多様な時代、著者を背景とし、曖昧である一方、神の言葉はそれらに共通の不変の核となり、正義と愛の命令に帰結する。敬虔の本質はこのメッセージを自分のものとすることにある。そこには哲学する自由と対立するものは何もない。逆にその自由を禁じる者はむしろ敬虔と対立しているのだ。
第二部の政治論で、スピノザは「社会契約」に依拠する。社会が自然や他者による害から人々を守れるように、人々が社会に対して自分の自然権を委譲して市民となる契約だ。
他の社会契約論者たちは、情念を自然状態に固有のものと捉え、国家の機能を妨げるものを抑制することのみ考えた。しかしスピノザは、情念とは人間の本質的な部分であり、契約の後に消えてなくなるものではないため、国家が脅かされるのは外的要因よりもむしろ市民の情念によると考えた。そのため国家は、情念を導くための武力以外の仕掛けを作るか、市民の欲求や利害を充足させなければならない。
国家が活用できる情念として宗教的情念があるが、これは崇拝していた王を憎むように大衆を扇動し得る諸刃の剣となる。近代国家は、市民の情念を安定させる方策として聖職者に対する統制権を持たねばならないが、そのために有効なのが、市民に表現の自由を承認、保護することである。
したがって、国家の具体的な支配権に合致しているからこそ、哲学する自由が認められねばならないのだ。
『エチカ』は五部からなる。
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