世の中にはお金で買えないものがある。だが、最近ではあまり多くない。いまや、ほとんどあらゆるものが売りに出されている。例えば、
・刑務所の独房の格上げ:一晩八二ドル――カリフォルニア州サンタアナをはじめとする一部の州では、非暴力犯が特別料金を払うと、払わない囚人とは別の、清潔で静かな独房に入ることができる。
・額(あるいは体のどこかほかの部分)のスペースを広告用に貸し出す:七七七ドル――ニュージーランド航空は三〇人の人を雇うと、頭髪を剃らせ、消える入れ墨でこんなスローガンを入れさせた。「変化が必要? それならニュージーランドへ行こう」
われわれは、ほぼあらゆるものが売買される時代に生きている。過去三〇年にわたり、市場――及び市場価値――が、かつてないほど生活を支配するようになってきた。市場と市場的思考が比類なき威光を放つようになったのは冷戦後のことだ。物の生産と分配を調整するほかのいかなるメカニズムも、富と繁栄を築くことにかけては、市場ほどの成功を収めたことがなかった。こんにち、売買の論理はもはや物的財貨だけに当てはまるものではなく、いよいよ生活全体を支配するようになっている。
すべてが売り物となる社会に向かっていることを心配するのはなぜだろうか。理由は二つある。一つは不平等にかかわるもの、もう一つは腐敗にかかわるものだ。
まずは不平等について考えてみよう。裕福であることのメリットが、ヨットやスポーツカーを買ったり、優雅な休暇を過ごせたりといったことだけなら、収入や富の不平等が現在ほど問題となることはないだろう。だが、ますます多くのもの――政治的影響力、すぐれた医療、犯罪多発地域ではなく安全な地域に住む機会、問題だらけの学校ではなく一流校への入学など――がお金で買えるようになるにつれ、収入や富の分配の問題はいやがうえにも大きくなる。
すべてを売り物にするのがためらわれる第二の理由は、市場には腐敗を招く傾向があるということだ。市場はものを分配するだけではなく、取引されるものに対する特定の態度を表現し、それを促進する。子供が本を読むたびにお金を払えば、子供はもっと本を読むかもしれない。だがこれでは、読書は心からの満足を味わわせてくれるものではなく、面倒な仕事だと思えと教えていることになる。
経済学者はよく、市場は自力では動けないし、取引の対象に影響を与えることもないと決めつける。だが、それは間違いだ。市場はその足跡を残す。ときとして、大切にすべき非市場的価値が、市場価値に押しのけられてしまうこともあるのだ。
公共生活や人間関係において市場が果たすべき役割は何だろうか。売買されるべきものと、非市場的価値によって律せられるべきものを区別するには、どうすればいいだろうか。お金の力がおよぶべきでない場所はどこだろうか。われわれは市場の道徳的限界をめぐる議論を避けるべきではない。
ワシントンDCでは、議会の委員会が立法案に関する公聴会を開く際、企業のロビイストたちは席を取るために何時間も並びたくはないため、専門の行列代行会社に数千ドルを支払い、自分の代わりに行列に並ぶ人を手配してもらう。並ぶのは主に年金生活者、文書配達人、ホームレスの人たちだ。
こうした行為に何か悪いところはあるだろうか。ほとんどの経済学者はないと言う。市場は行列に優越するという主張には二つの論拠がある。一つは個人の自由の尊重にかかわるもので、人々は他人の権利を侵さないかぎり何でも自由に売り買いすべきであるという主張だ。
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