ビジネスモデル全史という書名には2つの意味が込められている。ひとつ目は「ビジネスモデル」の「ビジネス用語・経営戦略用語」としての歴史であり、およそ3期に分けて語られる。
1期目は、はるか昔から1990年頃までの、言葉としてあまり注目は浴びてこなかった時期だ。実はその時期に「ビジネスモデル」で多くのイノベーションが起きていた。
2期目は1991年頃から2001年までである。インターネットの急激な普及に伴い勃興した、ネットビジネスの説明のために、多くの起業家や投資家、メディアなどが「ビジネスモデル」という言葉を使っていた。2001年のネットバブル崩壊でその言葉は陳腐化するように思われたが、見事に復活を遂げる。
その復活は、3期目の2002年以降になされたもので、「競争優位の持続性」や「イノベーションの起こし方」への回答として、語られるようになったのである。
書名のもうひとつの意味は、ビジネスモデル革新の歴史である。ビジネスモデルは『誰かに対してある価値を、どこからか何かを調達・創造し、提供して、対価を得るもの』を表す。実際にすべての強い企業は、独自のビジネスモデルを持っているものだ。以降ではビジネスモデル革新の歴史について、象徴的な出来事を概観していきたい。
日本におけるビジネスモデル史上最大級のイノベーションは、江戸時代前期の1673年に始まる。その舞台となる越後屋(現在の三越)は、三井家の4男4女の末子、高利(たかとし)が51歳のときに創業される。越後屋は老舗呉服店に対抗するため、「現金掛け値なし」と謳う。つまり、つけ払いを止めるとともに、顧客によって変えていた価格を統一する定価販売を始めたのだ。
他にも越後屋は訪問販売中心の呉服店の商売を店頭販売だけにした。さらに、呉服店では1反(通常幅36cm長さ12m)ごとの販売単位だったものを、切り売りすることにした。それだけではない。加えて、イージーメイドである「仕立て売り」も始めたのである。
1683年に両替商を始め、金貨中心の江戸と銀貨中心の大阪との間の両替コストを抑制し、幕府にも「公金為替」の仕組みが受け容れられる。
三井家はその後、今でいう持ち株会社をつくり、強固なグループを確立して三井財閥を形成するに至るのである。
キング・ジレットは発明一家の子どもとして育ち、行商人をしながら特許を取っていくような人物だった。彼は飲料の王冠メーカーで営業をしていた経験から、一度使ったら捨てられてしまうものこそがリピーターを生むという考えに至り、その発明をするべく思案をしていた。1895年に、ホテルで剃刀を研いでいた際に、刃を薄い鋼鉄にして安くすれば、使い捨てにできるとひらめくのである。
アイデアに興奮するジレットだったが、鋼鉄を薄く延ばす技術に苦戦し、その実現には6年を要することになる。苦難の末に実現した「替え刃式T型剃刀」は初年度の1903年に51個、替え刃168枚しか売れなかったが、
3,400冊以上の要約が楽しめる