日本政府は第5期科学技術基本計画にて、日本が目指すべき未来の姿として「Society 5.0」を掲げている。「Society 5.0」とは「狩猟社会、農耕社会、工業社会、情報社会に続くような新しい社会」であり、一言で言うと「超スマートな社会」である。その実現手段に「科学技術のイノベーション」が位置付けられ、政府主導で進めようとしている。
この計画における「超スマート社会」は、「必要なもの・サービスを、必要な人に、必要な時に、必要なだけ提供する社会」と定義されている。これは「無駄なこと、不要なこと、余分なことが一切存在しない社会」とも言い換えられる。手続きに待たされる時間、煩雑な書類のやり取り、交通渋滞など、本質と関係ないことに費やされる労力を最小化する社会を目指そう、ということである。
超スマート社会は、生産・流通・販売・金融・公共サービスなどの個別の分野をICTによって「システム化」し、統合的な「サイバー空間」のもとで処理して社会を「自律化・自動化」させる。サイバー空間が人間の代わりに様々な課題を解決し、かつ必要なものが必要なときに、必要な分だけ手にはいるような社会。それが超スマート社会なのである。
しかし、超スマート社会が倫理的に望ましい社会とは限らない。倫理学の世界では事実(○○である)と当為(◯◯するべきである)は区別すべきだと考えるが、世の中には解決すべきでない課題もあるはずだ。その一つが、ナチスドイツにおけるユダヤ人問題の最終的解決である。
私たちの社会が「超スマートであるべき」なら、何を倫理的基準にして課題を設定するのかを問い直さなければならない。その基準がなければ、スマートな社会は私たちに牙をむくこともあるだろう。
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