大谷は米国野球界を席巻した。デビュー時の華々しい活躍。全てのリソースを野球につぎ込む真摯な態度。相手チームのファンですら注目するそのポテンシャル。ベーブ・ルース以来、誰も歩む事のなかった二刀流という道。ただ一人その道を突き進む大谷翔平は一体どのような環境で育ち、二刀流という未踏の境地を切り開くことになったのだろうか。
大谷は東北、岩手県奥州市に生を受けた。父親は社会人野球の名門チーム三菱重工横浜でプレーし、母親は元バトミントンの選手である。
少年大谷を夢中にさせたのが歴史と野球だった。とりわけ野球への思いは強く、大谷は一流の選手になるための計画を練った。その目標は、日本のプロ野球ドラフト会議で8球団から1位指名を獲得することだ。才能と目標、そしてそれに向かう意識の高さを兼ね備えた大谷に、不可能なことはほとんどないように思えた。夢に向けて地道に課題をこなして実力をつけていた大谷だったが、8球団から1位指名を受けることは難しくなる。なぜなら、大谷は各球団が指名選手を発表する数日前、メジャーリーグを目指す意向を表明したからだ。
メジャーへの意向によりほとんどの球団が指名を断念した。そんな中、名乗りを上げたのが日本ハムである。日本ハムのスカウトはいきなりメジャーを目指しても成功例は非常に少ないという事実をデータで提示した。当時18歳だった大谷が慣れないマイナーリーグの環境で経験を積むよりも、日本の野球界のトップレベルで腕を磨く方が本人のためになる。さらに日本ハム上層部は、大谷を二刀流選手として起用するという条件も提示した。こうして日本ハム渾身の説得は功を奏し、大谷は日本ハムへの入団を決意する。
入団後、日本ハムは賛否両論がありながらも大谷を二刀流で使い続けた。大谷は投打に活躍していたとはいえ、打率は2割3分と決して突出した打者ではなかったから否定的な意見が出るのもある意味当然だろう。1年目の新人王こそ楽天の則本昴大に大差をつけられて2位となったが、2年目はその持ち前の剛速球と爆発的な長打力で大谷は頭角を現していった。2014年9月7日のオリックス戦で10号ホームランを放ち、2桁勝利2桁ホームランという偉業を達成することになる。
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