人間の欲深さは大切な本能的能力だが、食べものが豊かになり、過食になった。満腹になるまで食べるのが望ましいことだと思いながら育つと、食事制限にはたいへんな努力を要する。
知識も同様だ。勉強は知識をふやすことであり、知識は多いほどよい。みんなそう思っている。学校に通うあいだとにかく知識欲のまま過ごして知識過多になり、いつしか「知的メタボリック症候群」になる。
知的メタボになると知識が頭のはたらきを妨げ、自分で考える力を失わせてしまう。知的メタボは通常のダイエットと違って、減量、つまり知識を少なくすることが難しい。
だから思い切って、すてる。忘れようと思って忘れるのは難しいが、眠っている間であれば多くのことを忘れられる。運動をして汗を流すのも有効だ。散歩は頭の掃除をしてくれる。だからかつての哲学者たちは散歩をしたのだろう。
過剰な部分はすてて、発明、発見をすることで、人間は進化する。
小さいときから、たえず病気をして親に心配をかけた人がいた。何度も喘息で死ぬほどの苦しさを味わうも、何十年もかけて発作をおこさなくなった。気がつくと90歳を越えていた。
本人は「病気のあとには、前よりいっそう元気になるものだ」と言う。人間には回復力がある。病気で80あった体力が40にへる。回復力はそれをときには90まで改善する。「回復力を上手に利用すれば、体はつよくなることも可能」だそうだ。リンゴはキズがあるもののほうが甘い。きれいなリンゴがしない努力をした結果、普通以上のうま味が出る。回復力は、「生きるものが共通してもつ自然力」なのだろう。
病気や失敗、不幸、災難はプラスにはたらくものだ。悪いことを越えようと夢中になると人間力が発揮される。戦国武将の山中鹿之介は、自分がめぐまれた環境にある危険を察知し「われに七難八苦を与え給え」と祈願したらしい。
雑誌などの座談会企画はもともと『文藝春秋』で菊池寛が始めたことであり、それを日本だけでなく世界中がまねした。
学校が教える知識は、学校以外の場所からの借りものだ。「学ぶ」ことはそもそも「まねる」ことである。それを永く続けると、「知識というものがほかの人たちの作ったものであることを忘れる」。
自分の生活の中から新しいものを引き出すことが「考える」ことであり、「知的」さだ。知識は、それを活かす知力がなければ意味がない。ぼんやりではなく、考えながら生きる人間によって社会は変化していく。
「知るより、考える」、これが「おとなの思考の基本」だ。
自然科学は対象を分析・細分化して、よけいなことを一切排除し、純粋真理を追求する。専門家の多くは雑学的興味を除外した「極小の真理」を目ざす。
人文系の学問もその方法論を真似ようとしたが、それは「思考の未熟」である。ことばは物質と違ってきわめて複雑、雑然としており、そこに生活的で雑種な真理がある。
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