紫式部は20代後半ごろに、山城守(やましろのかみ)を務めていた藤原宣孝と結婚する。999年頃に一女を授かるが、宣孝が流行病に倒れたことで2人の結婚生活は3年ほどで幕を閉じた。幼い娘と二人きりになった紫式部は、物語を書き始める。これがのちに54帖にもわたる大作となる『源氏物語』であるといわれている。
紫式部の文才が時の権力者である藤原道長の目に留まり、道長の娘で一条天皇の正室である中宮彰子に女房として仕えることになった。当時の女房とは、一人住みの「房」、すなわち部屋を与えられ、宮中や貴族の屋敷に仕えた女性のことを指す。皇后や中宮などが住む宮中の奥向きの宮殿は「後宮」と呼ばれ、この時代は男子禁制ではなく、天皇や貴族たちが出入りするサロンのような役割をもっていた。
道長は自分の娘に箔をつけるため、身分の高い貴族の娘を女房として雇うこともあった。
後宮に集った女房たちは赤染衛門(あかぞめえもん)や和泉式部(いずみしきぶ)など教養が高く、平仮名を使って和歌を詠んだり日記や物語を書いたりと、「女房文学」と呼ばれる作品が多数生み出されていた。紫式部は道長の支援を受けて『源氏物語』を完成させたとされる。一条天皇のもう一人の正室であり、彰子とライバル関係にあった定子に仕えていた清少納言が『枕草子』を書いたのもこの時代だ。
『紫式部日記』の中心は、彰子の出産、敦成(あつひら)親王誕生に関する記述である。
紫式部が出仕して2〜3年が経った1008年の秋、土御門殿(つちみかどどの)と呼ばれる道長の広大な邸宅に、彰子は出産のために里帰りしていた。
道長が強引な方法を使って娘の彰子を中宮の座につかせた結果、一条天皇には二人の正妻がいるという前代未聞の事態になっていた。しかし、一条天皇が愛した定子は第3子の出産の後産を終える前に、一男二女を残して24歳の若さで亡くなってしまう。
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