日露戦争後のポーツマス講和会議にて活躍した、小村寿太郎の話である。彼が政務局長だった時、閔妃事件が起こり、その後始末のために小村は朝鮮に派遣されることとなった。そこで、勝海舟にアドバイスを請うた。
勝は、「死生を意にとめたら仕事はできない」「身命をなげうち、真心をこめてやるという腹さえきまっていれば、あとはその場合その場合で考えたらいい 」と語った。これを聞いた小村は大いに勇気づけられ、無事に難局を乗り越える。
結局のところ、大事をなす者の最も根本にある心がけとは「命をかける」ことだろう。それほどの思いこそが、どのような困難にも対処するための力となる。
とはいえ、なかなか命をかける気概にまでは至れないのも人情だ。しかし、考えようによってはつねに死ととなりあわせだとも言える。用心で防げるところもあるが、交通事故で命を失うのは運命的なものだ。道路を歩くことも、車を運転することも、単にそのことを意識していないだけで、ほんとうは命がけなのである。
であれば、ある使命感のなかで興味を持って取り組んでいる仕事に対し、命がけであたることはそこまでむずかしくもないのではないか。特に指導者には、そのような覚悟が必要であろう。
秀吉と家康が小牧で戦った時、秀吉は2万の兵を率いて、家康の本国である三河を奇襲しようとした。しかしその作戦が家康に筒抜けになり、長久手で徳川の追撃を受けてしまう。秀吉は前途ばかりに気を取られ、敵にあとをつけられていることにまったく気がつかなかったのだ。第一隊の池田恒興、第二隊の森長可が討ち死にするなどの大敗北を喫することとなる。
一方、堀秀政率いる第三隊だけは違った。徳川方の襲撃にも慌てず、鉄砲隊を並べて反撃を行い、徳川方を敗走させることに成功した。しかも秀政は、なおも追撃しようとする部下を戒め、兵をまとめて秀吉の本陣に帰ったという。
この秀政の態度は、非常時において指導者はどうあるべきかをわれわれに教えてくれる。
誰でも困難に直面すると動揺するものだ。そのような時に、指導者が誰よりも先にあわてるようでは、従う人たちの間に不安な雰囲気を伝染させ、収拾のつかない事態に陥ってしまう。
指導者が落ちついていて、淡々と物事をこなすことができれば、周囲の人たちもみな、「その姿に安心感を覚え、勇気づけられる」はずだ。それが全体の動揺と混乱をしずめることにつながる。
指導者であっても、内心に不安や心配を抱えることがあるのは当たり前だ。それでも、それをすぐに態度に表してはいけない。周囲は指導者の態度に敏感なものである。不安や心配はすぐ全体に伝わり、士気を低下させてしまう。
だからこそ、指導者は日ごろから冷静さを保てるよう、みずから心をきたえることが重要だ。そして、どのような難局においても、落ち着いた態度で対処できるよう心がけていきたい。
中国・後漢の時代に楊震という政治家がいた。ある夜、かつて引き立てたことのある王密という人物が訪ねてきて、昔話などをしたあと、大量の黄金をとりだして楊震に贈ろうとしたが、楊震はことわった。王密は、「こんな夜中で、この部屋には私たち2人しかいないのですから、誰にもわかりませんよ 」とさらに勧めてくる。楊震は次のように返した。「君は誰も知らないというがそうではない。まず天が知っている。地も知っている。それに君と私自身が知っているではないか 」。
楊震は、その後よりいっそう人格を讃えられ、中央政府の高官に抜擢された。
人間は弱いもので、だれも見ていないと思えばつい誘惑にかられて悪事に手を染めてしまうものだ。一方で、よくないことをしても全く平気な顔をしていられるわけでもない。他人の目をいくらごまかせても、自身の良心が許さないからだ。
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