吾輩は猫である。名前はまだ無い。
どこで生まれたかわからない。薄暗いじめじめした所でニャーニャー鳴いていた事だけ覚えている。吾輩はここで初めて人間というものを見た。あとで知ったのだが、それは書生という、人間の中で一番凶悪な種族だったそうだ。
初めて見る人間の顔は妙だった。毛が生えておらずつるつるしていて、まるで薬缶のようである。いろいろな猫に会ってきたが、こんな奴は初めてだ。
しばらくはこの書生の手に座っていたが、やがてすごい速度で動き始めた。目が回り、胸が悪くなる。これはダメだと思っていると、どさりと音がして目から火が出た。そこから先は記憶がない。吾輩は笹原の中へ捨てられたのだった。
笹原を抜け出して歩いていくと人間臭い所へ出たので、「ここへ入ったらどうにかなるだろう」と思い、竹垣の崩れた穴からとある屋敷にもぐり込んだ。もし竹垣が破れていなかったなら野垂れ死んでいたかもしれない。
屋敷に忍び込んで最初に会ったのがおさんだ。おさんは吾輩を見るや否や首筋をつかんで表へ放り出した。放り出された吾輩は再び台所に這い上がり、またおさんに投げ出される。これを4、5回ほど繰り返しただろう。おさんのことをつくづく嫌いになったが、この前サンマを盗んで仕返ししてやったら、胸がスーッとした。
そうこうしていると、この家の主人が「なんだ、騒々しいな」などと言いながら出てきた。下女は吾輩をぶら下げて「この宿なしの小猫がいくら出しても出してもお台所へ上がって来て困ります」という。主人は鼻の下の黒い毛をねじりながら吾輩の顔を眺めていたが、やがて「それならうちへ置いてやれ」と言った。吾輩はこうしてこの家に住むようになったのである。
主人の職業は教師だそうで、学校から帰ると書斎からほとんど出てこない。家の者は大変な勉強家だと思っているし、当人もそのように見せているが、実際は違う。吾輩は時々こっそり彼の書斎を覗いてみるが、よく昼寝をしているし、読みかけの本に涎をたらしていることもある。
猫から見ると、教師は実に楽な職業だ。人間に生まれたら教師になるに限る。こんなに寝てばかりの者に勤まるなら猫にだってできるだろう。
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