「自信のない人」とはどんな状態の人だろうか。たとえ不当な扱いを受けても、相手の願いを聞き入れてしまう“よい人”であることが多い。“よい人”は他者に気に入られようとするため行動を操作されやすく、したがって自信を失いがちだ。
相手を操作しようとする人は劣等感や不安を無自覚に抱えているものだ。自分の要求を満たしてくれない人は全員エゴイストだと思い込む。そうした態度は結局、自己主張のない受動性の現れである。
自分の周囲にいる人をよく見てほしい。自信のある、なしは本人だけの問題ではなく、その人を取り巻く人間関係によって、いかようにも変わっていく。自信をなくしている人は、受動的な人との人間関係が原因になっているはずだ。誰かを操作しようとする人は、自身の情緒的な成熟を達成することなく、自分の心のトラブルを一時的にでも忘れるために相手を利用する。そこから逃れようとすると「今までの友人を大切にすべきである」などと正論で責める。良心の呵責からその非難に屈し、そうした人に過剰適応するほど、自信の欠如した「都合のよい人」になってしまう。
他者に操作されている「自信のない人」は、操作してくる相手に何もかも委ねてしまうから、その人が不満を抱かないか常に顔色をうかがうことになる。こうなると心まで支配されている状態だが、「自分に関することは自分が決めてよい」ことを自覚しよう。
不当な要求に対してであっても、「ノー」と言うこと自体に罪悪感を覚えてしまう人はいるが、それは決して罪ではない。自分の行動の良し悪しまで誰かに判断を任せるその弱さにつけ込んで、「それをしたら後悔する、みんなに嫌われる」と平気で言いながら操作しようとする。自分の行動を自身で判断するようになれば、そうした人たちにとって利用しづらい人間になるため、余計におどしたりなだめすかしたりしてくるはずだ。そうして、周囲の人間がいかに卑怯で厚顔無恥だったのか見えてくる。
自分の依存心を克服できれば、やがて「自分にとって都合のよい解釈を相手に押しつけないような人たち」が集まってくる。卑怯な人間を近づかせないためにも、行動の最終的な責任は自分でとろう。
本来、コミュニケーションとは自己主張があるからこそ初めて可能であり、人に自信を与えるものだ。ところが、他者から見捨てられる恐怖に囚われていると、常に周囲の期待に応えようとした結果、自己主張をなくしてしまう。
他人に好かれることを目標にするのではなく、自分を尊敬できるようになるべきだ。他者に見せるための自分と実際の自分という二つの自分を持ってしまうと、他者との深いコミュニケーションは難しくなる。
自己主張は、「自分の統合性が保たれている」からこそ実現できる。分裂した自分は結局、虚勢やわがまま、甘えを発露させるだけであり、統一的な自分であることを妥協してはならない。すべてをさらけ出す必要はないが、正当な感情を向けるべき他者に向けることは、「親しい人をつくる本質的な道」である。
自信のなさの原点は、特に家族関係、親子関係から探っていける。そこに「ごまかし」がなかったかを振り返ってみてほしい。真の自分の望みに目を向けることなく、利己的な期待や虚栄心を押しつけてくる親の言いなりとなり、人生の第一歩から自分を偽ってきたのではないだろうか。
3,400冊以上の要約が楽しめる