柳井正の父である柳井等が小郡商事を設立したのは1949年のことだ。宇部中央銀天街の紳士服店は、典型的な家族経営の零細企業である。等は昔ながらの親分気質で、気性が荒かった。「何でもいいから一番になれ」。柳井は父からの期待とも抑圧ともいえる重圧の中で育ち、逃げ道を求めるように受験勉強に打ち込んだ。そうして手に入れたのが、早稲田大学政治経済学部への切符だった。
だが、柳井少年が旅立った東京は期待とは違っていた。学生運動に熱狂する同世代の若者たちに違和感を抱き、大学から足が遠ざかってしまう。どこまでも無気力で、たまにジャズ喫茶やパチンコ店にぶらりと出かけていく。そんな柳井は、下宿先の大家さんに「寝太郎」というあだ名がつけられるほどだった。
柳井は、自由の地アメリカへの憧れから世界一周旅行をしたが、打ち込めるものを見つけられなかった。就職活動ではことごとく落選。見かねた父の斡旋でジャスコに入社した。1971年、ジャスコ本店のあった三重県四日市市へ。雑貨売り場を経て、紳士服売り場に配属された。
ところが、柳井はわずか9か月でジャスコを辞めてしまう。23歳の柳井は結婚を考えはじめ、ついに宇部商店街の紳士服店を継ぐことを決めた。
この頃、宇部の経済を支えてきた石炭産業は夕暮れ時を迎えていた。銀天街もやがて衰退の道を辿るだろう。そのままでいいのか。ここから這い上がるにはどうすればいいのか。
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