本は百冊あればいい。それは、小さな本棚ひとつに収まり、だれでも買えて持てる量だ。
これは、「本は百冊読めばいい」ではない。自分にとってのカノン(正典)となる百冊を選ぶには、一万冊ほどは手に取らなくてはならないかもしれない。本書は、自力で百冊を選べるようになるための方法論である。
最終的にはその百冊さえいらない。頭の中に、百冊の精髄が入っている。そんな状態になっていたい。
本の読み方として、速読が現代人にとっての必須の技術だと言われることもあれば、反対に、遅読こそが大切だと言われることもある。著者の考えは、速読か遅読かという問題は二者択一ではなく、速読する本とじっくり精読するべき本を分けるというものだ。
速読が必要なのは、静かに精読するに値する本を選ぶためだ。テレビやネット、動画は、速読を阻む、「遅すぎる」メディアだ。読者や視聴者の時間を奪い合い、それをカネに変えようと、「見せ方」を工夫する。欲しい情報の前にはCMや演出、課金の案内などが入るが、そこまでの時間や手間をかけて得るべき情報であることはほとんどない。一方、紙の本は、瞬時に全体像を見わたし、行きつ戻りつしながら、適切な場所に高速で移動することができる。速読に最も適したメディアは紙の本であり、速読こそ読書の醍醐味だ。
速読力を養う技術としては、脳内で音を再生せず文字を視覚情報として「見る」こと、漢字だけを追って情報を得ること、文章を目で追うのではなく段落全体を眺めること、目的意識をはっきりさせてキーワードだけを追うこと、すきま時間を使って同時並行で何冊かを読み、多ジャンルの本をまんべんなく読むことなどが挙げられる。
しかし、速読しかできないのはよろしくない。まじめに書かれた本は速読を峻拒する。著者は、実用書や資料は速読するが、小説は速読しないという。小説とはあらすじを追うものではなく、作品に流れる空気を味わうものだからだ。
遅読には遅読のための作法がある。文章そのもののリズムを味わい、グルーヴに乗ること、ドッグイヤーやアンダーライン、余白のメモなどで読書の痕跡を残すこと、意味の取れない本は音読してみること、写経のように書き写して抜き書きすることなどが挙げられる。
本は買うべきか、借りるべきかというのは、意味のない問題設定だ。どういう本を買い、どういう本を借りて済ますかという基準を自分のなかでつくり上げることが大事だ。
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