松下幸之助は感謝するという気持ちを商売の原点としていた。
松下は20代の頃、当時は不治の病と言われていた肺結核の前兆である病にかかった。明日の命が分からない時を過ごした松下は、多くの人や物によって生かされている現実を知り、感謝の気持ちを人一倍感じていたに違いない。
松下は、常に自分の会社で働く部下や社員に、「みんなよう、やってくれる」と感謝の気持ちを持っていた。そして、社員のみならず、「道行く人全てがお客様」、つまり、この世のすべての人に「お客様」と思うほどの感謝を抱いていた。部下を叱るときも、日ごろの苦労に感謝をして心の中で手を合わせるように叱責すると言っていた。松下の94年の生涯は「感謝の気持ち」に貫かれていた。
著者は松下の側で23年ほど仕事をした。27歳から36歳まではPHP総合研究所で秘書として、その後70歳までは実質的経営担当者として。秘書をやっていたときも注意を受けることはあったが、経営担当者になってからは叱責を受けるようになり、それは時に著者が卒倒するほど激しいものであった。松下は仕事を与える時に考え方や基本方針などを示したが、著者がこれに沿わずに失敗すると厳しく叱った。
しかし、方針に沿って失敗した時は「心配せんでいい、あとはわしにまかせておけ!」とよく言ってくれた。その言葉に著者は毎度感動し、方針に沿うことが知らず知らず身についたという。
松下が生まれたとき、家は資産家であった。しかし、父親が米相場に手を出して失敗してからは、全てを売却し一家は離散した。奉公に出された松下は一人で生きていかざるを得なかったため、常に孤独と戦い自主自立の精神を身につけていった。
経営を担う松下電器が発展途上のときも、彼は国や政府などの他者に助けを求めることはなかった。松下電器はただお客様と社会だけを見つめながら、大きく発展したのである。松下はよく、「自主自立が大事やね。誰とも仲良くするけど、誰にも頼らんという、そういう心持ちが大切や」と言っていたという。
PHP研究所はずっと松下電器におんぶに抱っこの経営を続けてきたが、著者が経営担当者になってから4年ほどで、一切の援助を断った。周囲は反対する者ばかりであったが、自立することを唯一松下だけが喜んでくれたという。
著者は松下といるときふと、ある雑誌の経営者インタビュー記事の写真を思い出した。経営者の後ろの壁に、大きな字で「知恵を出せ。それができない者は汗をかけ。それが出来ぬ者は去れ」と書かれており、なるほどと感心したと松下に話した。すると松下は「その会社は、きっと潰れるで」と予言し、実際に役に立つ知恵は、動いて汗を流して、そうして生まれてくるものだと述べた。
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