芥川賞史上もっともハイレベルな選考会として知られる、のちのノーベル賞作家大江健三郎との一騎打ちを制し、開高健は作家として十分に認知されていた。しかし、朝日新聞社臨時海外特派員として南ベトナム政府軍に従軍し最前線を取材するうち、ベトコンとの銃撃戦に遭遇する。開高は表面上豪快に見えるが、性格の根本に繊脆なところがあった。そんな開高を戦地に駆り立てたのは、アメリカの正義なるものの欺瞞を暴くとともに、「ある男」のように、もう一段上を目指すためには土に額をこすりつけなければならないと考えていたこともある。
「ある男」とは、佐治敬三である。サントリーの2代目社長であり、会社帰りにバーで一杯という文化を日本に根づかせた人物だ。敬三は失職中だった開高を拾い上げ、宣伝部のコピーライターや伝説のPR雑誌『洋酒天国』の編集長として活躍させた。作家との二足のわらじをはくことも許し、開高は在職中に芥川賞を受賞するのである。その二人の関係について敬三は次のように語った。
「弟じゃあない。弟といってしまうとよそよそしい。それ以上に骨肉に近い、感じです」
敬三が身を置いていたビジネスの世界もまた、人生を賭けた戦いの場と言える。その最たるものは、昭和38年のビール事業進出だった。ビール大手三社(キリン、サッポロ、アサヒ)の壁は難攻不落を誇り、過去の挑戦者はみな野に屍をさらした。敬三は「サントリーオールド」の売上が世界一になろうというときに、ビール事業への進出を決める。これは敬三が「第二の草創期」を導くために下した、断絶の決定と言えるものだった。
サントリーという社名の由来が、ヒット商品である赤玉ポートワインにちなんだ太陽の「サン」と創業家の「鳥井」によるということは有名だ。敬三はまさに太陽のような存在だった一方で、繊脆な一面も併せ持っていたことから、開高と理解し合える部分があったのだろう。高度成長期という混沌と矛盾がまじりあった時代に、彼らは不思議な運命の糸で結ばれていたのである。
昭和35年冬のこと、開高は専務室を軽くノックし、机に座っている敬三のところに向かい、やるんでっかと問うた。ビール市場進出のことだ。敬三は宝酒造がビール市場への参入に失敗した教訓から、隠密作戦でいくと決めていた。宝酒造は寡占三社の壁により認可を先延ばしにされ、参入後も販路の問題や消費者の厳しい反応を受け、七転八倒したあげくに撤退の道を歩んだ。
宝酒造の敗戦が色濃くなっていたときに、敬三は参入を決意したのである。敬三は雲雀丘の邸で静養している、父であるサントリー創業者の鳥井信治郎の枕頭で、その決意と企図をうちあけた。信治郎は、「自分はこれまでサントリーに命を賭けてきた。あんたはビールに賭けようというねンな。人生はとどのつまり賭けや。わしは何もいわない。……やってみなはれ」と言った。
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