心臓外科医として経験とキャリアを積んできたが、医療の現場では救えない患者もいた。手術で助けられない患者を救えるようになりたいと常に考えてきた。
そのためには心臓移植か人工心臓を用いた治療しかない。当時、心臓移植がタブー視されていたことから、著者は人工心臓で、より多くの患者を救うことに賭けてみたいと思い、39歳で医師から研究者になった。
当時、日本では「体内埋め込み型」人工心臓の開発を国が関わる形で進め、所属するテルモも主幹企業として参加していた。日本の人工心臓開発は欧米よりも遅れ、部品や材料の供給企業の不足が不安だった。訴訟リスクを冒してまで、部品や材料を供給しようというメーカーが少なかったのだ。また、国が目指す人工心臓の方向性が自分たちの目標と異なり、ジレンマに陥った。
そして、著者のグループはアメリカに開発拠点を置く決断をした。「日本の研究費を使ったのに」というバッシングもあったが、持ち前の反骨心から「必ずアメリカで成功する」と誓った。
人工心臓の開発は、実際に製品に落としていくのが難しく、特にポンプやコントローラーの小型化をクリアした製品仕様にするために寝る間を惜しんだ。製品仕様決定後はメーカー探しや、製品が組み上がった後の試験や実験に関する仕事などやるべきことが山積していた。限られたリソースでそれらをこなせたのは、スタッフの「火事場の馬鹿力」が大きかった。
アメリカでの初期の開発メンバーの1人である木島利彦と著者は、研究を共にするうちに親密になって結婚、著者が42歳の時に第一子を出産した。
失敗したり落ち込んだりした時、穏やかな木島は温かく見守り、著者の仕事を誰よりも理解していた。著者にとってかけがえのない支えとなっていた。働く女性にとって結婚や出産は難しい問題だが、著者の回答は、「自然にまかせるのが一番」だ。
渡米から3年目の2003年1月、著者のチームはテルモ100%子会社「テルモハ―ト」となり、社員は30人に増え、著者はCEOに抜擢された。
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