インターネットの普及により、世界がつながって、誰もが場所も時間も飛び越えられるようになった。しかし一方で、人々は、スマートフォンを持ち、SNSを利用しつつ、コンパクトなコミュニティをつくっている。いわば、顔が見える範囲で人とつきあう原始時代の人たちのように。なぜそうした状況が生まれたのだろうか。
誰でも情報を発信できるようになったことで、人々の個人的なコミュニケーションは「メディア的なコンテンツ」になった。個人が撮影した写真や映像は、スマホとSNSを経由して発信され、たとえば大きな事故などのニュースは、大手メディアに先んじて情報がインターネットに流れるようになった。
インターネット上の匿名の情報は信用しにくいが、たとえばフェイスブック上の友達から得た情報ならば、ある程度信用できる。すると、人々は「友達の情報」を「見ず知らずのマスメディアのご達見」より優先し始めるようになる。その結果、従来の何百万、何千万人を対象としたマスメディアのコミュニケーションはなくなり、自分の周りの10人や100人とのコミュニケーションで人々は事足りるようになっていく。人間の脳が「友達」として認識できる上限の人数は原始時代から変わらず、150人ほどだという。そのくらいの規模の原始時代の人付き合いが、現在、インターネット上に再現されている。
従来の雑誌や新聞では、あるパッケージに情報が集約されて提供されていたが、パッケージは崩れ、コンテンツがバラバラに消費されるようになっている。また、ソーシャルメディアの時代では、一人ひとりの個人がメディア化しているので、情報や人材を集めているキュレーターのような個人にフォロワーがつくようになった。
では、メディアがお金をとれる存在であり続けるためには、どうすればいいのか。小林氏は、池上彰氏のような解説者が、メディア界のスターであるという。つまり、パッケージが壊れてコンテンツがリキッド化している今、それらの意味や文脈を解き明かすことのできる解説者や論評者、編集者のような能力が必要とされているという。
従来は、広告がマスメディアの大きな収入源であった。が、現在では一個人と同等に一企業もメディア化しており、企業は直接お客とコミュニケーションをとることも可能になり、広告の意味が減少している。メディアは、広告収入も見込めなくなるだろうか。マス広告が必要なくなるというわけではない、と小林氏は語る。企業メディアで作ったコンテンツを広く知らせるには、マスメディアと連動したほうがいいケースもある。しかし、一方で、費用対効果が見込めない雑誌広告などについては、シビアな時代になってくると予測される。
コンテンツのリキッド化によってメディアは分解されてしまうため、ひとつずつのコンテンツの露出方法が大きな課題となっている。「ショッピングモール型から行商型に」、コンテンツの流通形態は変化しているのだ。行商のおばちゃんをお客の属性別にあちこち行かせるように、コンテンツを、キュレーションメディアやソーシャルメディア等のあらゆる経路を経てユーザーに届くようにしなければいけない。
アートもサイエンスも卓越した企業なら、優れたコンテンツを的確な相手に届けることができ、商売繁盛となる。が、伝統的なメディア系企業や広告会社は「いいものを作れば売れる」というアート的な思考が根強く、グーグルや新興キュレーションメディアなど、IT系メディア企業はサイエンス至上主義だ。
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