吉田氏は昔から起業家を志していた訳ではない。最初に目指していたのは、ビジネスとは程遠い演劇の世界で生計を立てる、ということであった。中高時代の吉田氏は、勉強は不得手であったものの、好奇心旺盛で様々な活動に精を出していたようだ。そんな中でも、彼がとりわけ強い関心を抱いたのが、文化祭における有志での演劇活動である。「大学に進学せず、役者になる」という想いを抱く当時の彼に対し、父は「自ら人生の選択肢を狭めることをするな。大学へ行け。卒業後は好きにしていい」と諭し、彼は大学への進学を決意したのだという。
東京学芸大学に進学した彼は、演劇部に入部。パントマイム劇でお客様、大学からも高く評価され、大学3年生の時には自らの劇団を立ち上げた。彼が劇場として目を付けたのは芸術家の集うとある廃墟。公演を大学4年生の7月と決め、半年間にも及ぶ準備に着手した。30名ほどの協力を仰ぎ、シナリオを描き、舞台装置を創り、音響や照明を用意した。
しかし講演直前に問題が勃発する。廃墟の正式な管理者に使用許可を申し出る、というのは今考えれば当たり前の話ではあるものの、当時の彼はそれを怠ってしまったのだ。最後まで粘り強く交渉したものの、最終的に廃墟の管理者からの講演許可は下りず、演劇は中止となった。
その時点で彼が背負った借金は約200万円。自分がやりたいことをやるには、まずは契約とお金のルールである社会の仕組みを知らなければならない、と痛感し、彼は卒業後就職することを決めた。しかし、この全く何もないゼロの状態からすべてを自分で作り上げる経験こそが、後のクラウドワークス創業に大きく影響を与えることになる。
大卒後、彼はパイオニア株式会社に入社した。彼は営業の才能を開花させ、入社後1年で全国1位の営業成績を残すまでの成長を見せた。しかし、自分の能力に自信と確信を持てなかった彼は、2年目に展示会企画・運営会社であるリード社への転職を決意した。彼曰く、リード社においてビジネスパーソンとしての素地が磨かれたのだという。というのも、経営トップや業界団体と密な連携をして一丸となって企画を成功させるのがリード社の業務であり、業界を俯瞰すること、また成功する経営者とは何かを本当に間近に見ることができたからであるという。3年後にはリード社のこれまで挑戦したことがない領域の企画を責任者として遂行し、大成功を収めたようだ。
そして彼は次なるステップを模索し始めた。そこで大きな影響を与えたのが、ガンホー・オンライン・エンタテイメント孫泰蔵氏の話だという。なによりも「リアル」であることを重要視していた吉田氏は、孫氏が語るバーチャルなネット上でのコミュニケーションの「リアルさ」に衝撃を受けたという。これからはインターネットの時代だ、と彼は確信した。2004年、ドリコム代表内藤氏と出会い、転職を決意。執行役員として入社した。
そこでも吉田氏はリード社での経験を活かし、大活躍することとなる。彼は家にも帰らず死に物狂いで働き、ドリコムはその1年後、東証マザーズへの上場を果たす。しかし、上場後、彼は地獄の教訓を味わうことになる。
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