「いき」という現象をありのままに把握し、その構造を明らかにしようというのが本稿の目指すところである。
まず、そもそも、ある言語や意味は、民族の存在が創造するものだ、と九鬼は述べる。言語が民族を形成するのではない。そのため、ある民族の持つ言葉は、民族固有の体験の色合いを帯びるものといえる。もちろん、「空」「森」など各国に共通する普遍性を持つ言葉もあるが、そうしたものでさえも、国々によって別の色合いの意味内容を持つ場合がある。
さまざまな言葉の中でも、「いき」という日本語はとりわけ民族的色彩の濃いものである。ヨーロッパ言語に注目してみても、まったく同じ価値の言葉を見出すことはできない。たとえばよく「いき」と訳されるフランス語のchic (シック)は、より意味の範囲が広く、趣味の「卓越」などという意味も含む。同じくフランス語のcoquet(コケット) は、異性の気を引こうとする態度である「媚態的」を意味し、「いき」の特徴の一つと通じるように思えるが、ときに「下品」ともなり「甘く」もなるというところでやはり同一の意味とはいえない。
このように民族固有のものである「いき」を追求するにあたって、九鬼は、「いき」のありのままの姿を把握することが大切だと述べ、西洋の類似の言葉との共通点を形式化するような態度を否定している。九鬼は、具体的、解釈的に「いき」の構造を明らかにするため、意識の上で認識している現象としての「いき」の存在様態を理解した上で、人の姿や芸術作品に客観的に見てとれる「いき」を理解するという方法をとる。次項以降で紹介していこう。
「いき」を意識現象として理解するための第一歩として、九鬼は、「いき」の意味を形成している三つの性質を挙げる。
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