1883年、オーストリア=ハンガリー帝国の田舎町に生を享けたシュンペーターは、その後母の再婚に伴い首都ウィーンに移り住み、10歳から通い始めた高等教育機関で優秀な成績を収める。ウィーン大学では法学・経済学を学び、20代半ばで初の経済書を発表。生来の性格から行く先々で変人扱いされるも、無事大学の教授にも就任し、のちに彼の理論の中核ともなる『経済発展の理論』も発表するなど、彼の人生においてもっとも充実した日々が続いた。
第一次世界大戦後には、当時の外務大臣バウアーの勧めでオーストリアの大蔵大臣の職を拝命し、戦後処理および戦後復興に砕身した。が、経済再建の方法についてバウアーと対立し、さらには悪意に満ちた噂を流されたことで失脚することとなる。大学教授として古巣に帰ったシュンペーターはその後、「銀行家が企業家のイノベーションを評価し、投資すること」が経済を発展させるとの持論を実践すべく、ウィーンにて銀行の頭取に就任した。しかしここでも不運なことに、戦後の安定恐慌の波を受けて経営状況が悪化し、多大な負債とともに銀行を去ることとなったのである。
翌年、ドイツの名門ボン大学の教授に就任したシュンペーターのもとには、多くの優秀な学生が集まった。
3,400冊以上の要約が楽しめる