300年もの間続いた唐の時代が終わると、中国では小王朝が分裂と抗争を繰り返す戦乱の時代が幕を開けた。各地方の軍閥(節度使・せつどし)が力を持ち、勢力争いが繰り広げられたが、これに終止符を打ったのが宋の初代皇帝太祖である。太祖は節度使の勢力を削減するとともに、軍事力を中央に集めた。
太祖は一見豪快に見えるが実は繊細で、日本人に例えていうなら豊臣秀吉に似た人物だったという。治世は16年、太祖の時代に、宋王朝の基礎が作られたといえるだろう。
第2代皇帝となったのは太祖の弟の太宗で、こちらは狸爺と呼ばれた徳川家康に似て、老獪な人物であったそうだ。科挙制度や塩の専売制度、財政制度など、宋の主要な制度は太宗の時代に整備される。
建国当初に年号を改める際、太祖はこれまでにないものにするように宰相に命じた。そして、「乾徳(けんとく)」と定まった。が、年号制定後の乾徳3年に発見された化粧道具に、なんと「乾徳4年鋳造」という字があることが発見された。驚く太祖に対して宰相たちはだれも理由を答えられなかったが、文官の陶穀(とうこく)と竇儀によって、前蜀(ぜんしょく)の王衍(おうえん)の時に「乾徳」という年号が使われていたことが明らかになった。太祖は大いに喜び、「宰相にするには読書人でなければいけない」と嘆息した。このことは、太祖が文官を重用し、科挙による中国官僚制度を打ち立てるきっかけとなった。
また竇儀は、処世術も有した智慧者であった。第2代皇帝太宗の時代には、宋建国最大の功労者といわれる趙普(ちょうふ)が権勢を振るっていたが、太宗はそれを快く思っていなかった。ある日太宗は竇儀を呼び出し、趙普の落ち度を語り、竇儀の才能をほめたたえた。しかし竇儀は取り合わず、趙普がいかに功臣であるかを述べたので、太宗は機嫌を損ねてしまった。
帰宅した竇儀は弟たちにこう言った。「わしは絶対に宰相にはなれぬが、しかし海南島に行かされもしない」。
竇儀のあとに呼ばれた盧多遜(ろたそん)は、趙普への恨みと皇帝のご機嫌取りで、太宗に同調して趙普を攻撃した。そのせいで趙普は宰相を追われて左遷されてしまう。盧多遜は宰相になったが、のちに趙普が宰相に返り咲くと、海南島に流されることとなった。竇儀の言葉通りになったわけである。
呂蒙正は、太宗の時代に行われた科挙で、皇帝が同席する最終試験である殿試(でんし)の、最初の首席合格者である。その後もどんどん出世し、太宗時代の終わりから第3代皇帝真宗の時代まで合計9年も宰相を務めた。
呂蒙正は度量の大きい人物で、他人の過失を覚えないようにしていた。
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