1915年、佐々木正は、家族とともに台湾に渡った。その頃の台湾は日本にとっての「フロンティア」であり、入植した人々は人生の再出発を図る気概にあふれていた。佐々木は父親から武士道精神を叩きこまれながら、台湾という様々な文化が集まる環境の中、成長を遂げていった。
高校3年の夏、台北帝国大学で植物の研究をしている教授のもとへ実習に行った佐々木は、「接ぎ木」という研究テーマを与えられた。熱帯で育った木同士、もしくは北方で育った木同士の接ぎ木は容易だが、熱帯で育った木と北方で育った木を接ぐことは難しい。佐々木は早速この課題に取りかかるべく、日本からリンゴの苗を取り寄せ、台湾南部で調達したマンゴーの苗に接ぎ木をしてみたものの、リンゴに接ぎ木したマンゴーはすぐに枯れてしまった。しかし、樹液が流れる管の太さの違いが原因とわかると、二つの管がぴったり合うように計算して接いだ。結果、熱帯のマンゴーと北方のリンゴは見事に繋がり、リンゴのような形をしたマンゴー「リンゴマンゴー」の実を結んだ。
「そうか、異質なものでも工夫をすれば接ぐことができる」「そして異質なものが融合すれば、必ず新たな価値が生まれる」――佐々木の「共創」という信念が芽生えた瞬間であった。
20歳になった佐々木は、日本本土に戻り京都大学の工学部に進学、京都で下宿生活を始めた。父の勧めにより電気工学を選んだ佐々木は、当時の主流であった「強電」ではなく「弱電」を専門分野に選んだ。インターネットやITはおろか、エレクトロニクス産業もまともになかった当時、電子の動きを研究する「弱電」は日本ではマイナーな研究分野だったが、この選択が結果的に、電子工学で世界の最先端だったドイツのドレスデン工科大学への留学に結びついた。
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