織田信長の小姓として仕えていた木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が、寒い冬の夜に、信長の草履を、自分の懐で温めていたエピソードは誰もが一度は聞いたことがあるだろう。この件をキッカケに藤吉郎は出世街道を歩むことになるが、実は豊臣秀吉の部下、石田三成にも同様のエピソードがあるのをご存知だろうか。
ある日、鷹狩の帰りにのどの渇きを覚えた秀吉は、通りがかりの寺に立ち寄り、飲み物を求めた。そのとき応対に出た少年(後の石田三成)は、1杯目には大きな茶碗にぬるい茶をなみなみと注いで出してきた。秀吉がおかわりを注文すると、次はやや小さめの椀にやや熱い茶を淹れて出した。興味を持った秀吉が3杯目を注文すると、今度はさらに小さな椀に熱々の茶を淹れて出してきたという。秀吉の喉の渇き具合に応じて温度と量を変える気くばりに感心した秀吉は、少年を連れて帰り家来にしたという。
これら2つのエピソードは、どちらも目上の人に対するわかりやすい「おべっか」である。いつの時代も、能力の高い人間には仕事が集中するため、常に忙しい。ゆえに能力の高い人間は、すぐに自分の助けとなる「即効性のあるサービス」を必要としている。つまり「露骨なおべっか」に弱いのである。有能であればあるほど、露骨なおべっかの価値を知っているとも言える。
このような即効性のあるわかりやすいサービスのことを本書では「戦略気くばり」と呼ぶ。戦略気くばりは、戦国時代に限ったものではなく、むしろ現代においてより必要とされている。現代の有能なビジネスマンは戦国武将以上に多忙なため、彼らの無言の欲求を汲んですばやく対応し、彼らの負担を少しでも軽くすることが切に求められているのだ。
ビジネスの世界で「気くばり」が成功を生んだ事例がある。
小谷正一は日本初の民間放送の創設に関わり、プロ野球パシフィックリーグ創設の立役者となった人物で、数々のビックプロジェクトを成功に導いた名プロデューサーとして知られている。彼の気くばりで最も有名なのが、彼が「ビデオホール」というラジオ番組の収録用ホールを経営していた時のエピソードである。1955年、小谷はホールの名を世間に知らしめるためにフランスからパントマイムの第一人者であるマルセル・マルソーを招き、公演を行った。このとき小谷は、マルソーの同伴で来日していた夫人の世話係を担当する部下に、以下のように命じたという。
『女性はショッピングをするとき、2つの商品を手にしてどちらにしようか迷うときが必ずある。マルソー夫人が迷って買わなかった方のものを全部記録して来い』
そして部下からの報告を受けた小谷は、マルソー夫妻が日本を発つときに、夫人が迷って買わなかった方の商品をすべてプレゼントした。夫人が大喜びしたことは言うまでもない。それを見たマルソーは『コタニの招きなら、いつでも日本に来る』と言い残して去ったという。
小谷正一が電通勤務時代の部下に、堀貞一郎がいる。1974年、三菱地所と三井不動産は、ディズニーランドの日本誘致を賭けて、ディズニー・プロダクションズの幹部に対して史上最大と言われる競合プレゼンを行った。堀は三井側を勝利に導いた立役者である。
堀は、プレゼン成功のカギは移動にあると考えていた。三菱地所が提案している富士の裾野の土地は、東京から少なく見積もっても100キロは離れている。三井が提案する浦安までの移動の体感時間を短く感じさせられたら、有利に運ぶに違いない。
そこで堀は、移動のバスの中で昼食を出すことを思い付いた。
3,400冊以上の要約が楽しめる