著者がシカゴ大学に入ったのは、1989年の秋だった。その時受講した授業のなかに、社会学の古典的な問題を扱ったセミナーがあった。どうして仕事に就けない人がいるのか、なぜ刑務所に行くはめになるのか、なぜ未婚のまま子供を生むのかといったことを、アンケートをおこない入手したデータをもとに、高度な数学的方法で分析し、理論を立てるというものだ。しかしそういった議論は、冷たくてよそよそしく、抽象的な議論のように著者の目には映った。また、研究者たちが、彼らに直接会ってみようとすらしないことにも違和感をもった。
一日中教室に座って数字を見つめるよりも、もっと他のことがしたい――そう考えた著者は、社会学の世界で一番有名なアフリカ系アメリカ人であるウィリアム・ジュリアス・ウィルソン教授のもとを訪れた。ウィルソン教授はちょうど、若い黒人が、さまざまな環境要因からどのような影響を受けているか、という調査を計画していたところだった。
ウィルソン教授の力になろうと、著者は自ら街に出て、若い黒人に直接話を聞いてまわった。だが、誰も協力してくれないばかりか、サイコロ賭博をしている若者集団に絡まれてしまう。
身の危険を感じた著者だったが、そこへ取り巻きを連れた一人の若者が現れた。立ち居振る舞いから、すぐに彼が皆のボスなのが見てとれた。彼の名はJTといい、ブラック・キングスという組織の一員だということがわかった。
著者はJTに、若い黒人の生活を理解し、より良い公共政策を立案するのを目的とした調査のためここへ来たと説明した。だが、JTは自分のことを、「黒人でもアフリカ系アメリカ人でもない」とし、「自分はニガーだ」とそっけなく答えた。彼によれば、アフリカ系アフリカ人というのは、郊外に住んでいて、ネクタイを締めて仕事に行く。だが、ニガーはスラムに住み、仕事なんてもらえないという。
彼らのことを本当に理解するためには、学者の使う質問票は役に立たないとJTは続ける。一緒につるまなければ、本当のことは何も見えてこないのだ、と。
JTとつるむことにした著者は、アメリカ最大の公営団地であり、JTが育った場所であるロバート・テイラー・ホームズという団地へ足を踏み入れた。
1980年代の終わり頃のロバート・テイラー・ホームズは、シカゴのギャング問題と麻薬問題の総本山とみなされていた。多くの住民が現金給付や食糧配給券、医療扶助などの生活保護に頼って生きている一方で、ギャングたちは麻薬密売、ゆすり、賭博、売春、盗品など、非合法的な手段で金を稼いでいた。いずれにせよ、彼らの多くは貧しい暮らしを強いられ、表の経済から実質的に切り離されていた。
当時、そのようなアメリカのスラムを扱ったルポタージュは驚くほど少なかった。特に、貧しい人たちとギャングたちとの関係について、取りあげているものはほとんどなかったと言ってよい。
著者がロバート・テイラー・ホームズで見たのは、住民たちとギャングたちの奇妙な共生関係だ。JTは、ホームレスから場所代を受け取り、麻薬を売ることを許されていない下っ端たちの取り分として回していた。また、ギャングたちを放っておいてもらえるよう、パトロールをしている人たちに金を渡したり、女性が安心して過ごせるように、麻薬中毒者に暴力を加えて黙らせたりもしていた。ロバート・テイラー・ホームズにおいて、JTたちは事実上の管理組織であるかのように振る舞っていた。
そうしているうちにJTとつるんで三年近くが経ち、博士論文のテーマを指導教授らと話すようにもなっていた。彼らは、ひとつの情報源ばかり頼りすぎたり、コミュニティを題材に博士論文を書くならもっと対象を広げよと忠告したりした。だが著者はコミュニティへの一番の入り口はJTであると考えていたし、彼のカリスマ的なリーダーシップや、彼が歩んでいる人生にも多大な関心を抱いていた。著者は彼のギャングがどのように幅広くコミュニティに影響を与えているか、もっと知りたくなっていた。
そんな時、大きなチャンスが訪れた。
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