著者の考える「やさしい人」とは、倫理にしたがって生きている人のことである。私たちが人類という仲間であり続けるため、そして人道的な社会を築くための基盤として、倫理は大切な役割を果たしている。
だが、倫理的に正しくあろうとすることは簡単ではない。なぜならどのような行動にも、正しい部分と正しくない部分の両面が存在するからだ。これを「倫理のジレンマ」と呼ぶ。スウェーデンで行われている「積極的安楽死は合法か違法か」という議論は、このジレンマの典型例といえるだろう。どちらの場合にも利益と不利益が生じるからだ。そこまでいかなくても、早く家に帰って家族の夕食をつくらなければならない時に、車がエンストして困っている人を助けるべきか等、倫理のジレンマは日常にあふれている。
やさしさを伴った人間とは、そうしたジレンマをしっかりと認識し、倫理的な思考を深めていく人間のことだ。また、ルールを守ること、判断力を磨くこと、良心を持つこと、共感力を養うこと、そして他人に助言を求めることも、倫理的であるために大きな助けとなるだろう。
真のやさしさを理解するためには、偽りのやさしさがどういうものかを知るべきである。「愚鈍」「意志薄弱」「ひ弱」といった印象を与えるやさしさは、真のやさしさではない。偽りのやさしさは、いずれも人を不幸にするものである。たとえば、行動を起こさず、立場を明確にしないことは偽りのやさしさにほかならない。
一方、真のやさしさには倫理が伴っているものだ。一見、無情に思えたり、非難をあびるような行いであったりしても、長い目で見て相手に最善の利益をもたらすと思われる行いは、真のやさしさから生まれた行為であるといえる。
よい人であるためには、行動することが最も重要だ。「大切なのは気持ちだよね」などという風潮など笑止千万である。どの人の人生も、何千という他人の人生と関わりあって成り立っている。だからこそ、自分の行動がよい影響をもたらすと信じて、実際に行動に移すことが何よりも尊いのである。
それが仲間への思いやりにもとづいた行動であれば、たとえ利己的な動機が含まれていても構わない。やさしくあろうとすることはもともと、大きな負担をともなうものであるからだ。だが、それは取り組みがいのある挑戦でもある。
よい人間になりたい、やさしくなりたいと思っているのにもかかわらず、最善の行動が取れないことがある。ここではその代表的な要因を2つ紹介する。
まず、時間や資源、人材や資金などのリソースの不足が、やさしく振る舞えない大きな要因の1つだ。実際、リソースが不足している極限状態で、倫理的思考を保ち続けることは困難である。
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