自由の女神像の管理人であるデイヴィッド・モフィットのもとに、ある時突然「女神像を外側から登っている男が2人現れた」という報告が入った。慌てて現場に向かってみると、確かに男たちは女神像を昇っていた。彼らの目的は、とある男性が誤認逮捕されたことへの抗議活動であった。「自由な人間がはめられた (Liberty was framed)」というわけである。
しかしこの彼らの主張ははからずも、アメリカ史上最もドラマチックな腐食との戦いの火蓋を切ることとなった。女神像に昇った男たちの一人、詩人のエド・ドラモンドは、予想以上に女神像が登りにくいということに気づいた。銅製の肌の表面に、無数の小さなブツブツがまるでニキビのようにできていたからだ。そのため、ドラモンドが持ってきた直径20センチの吸着カップは、まるで役に立たなかった。また、銅板と銅板の間には何らかの理由で隙間が生まれており、地上からは見えなかった小さな穴が、たくさん女神像にできていることにも気づいた。
ドラモンドたちが投降してきたあと、モフィットは女神像を調べた。そして、穴はくさびや釘が原因でできたのではなく、腐食が原因でできたものだということがわかった。ドラモンドの主張は正しかった。確かに自由の女神には骨組みがあった (Liberty was framed)。そして、その骨組みは錆びついていたのである。
自由の女神像に見られる主な腐食現象は、「ガルバニック腐食」と呼ばれるものだった。これは、異種の金属同士が触れておこる腐食のことであり、同時に電池が機能する仕組みでもある。女神像は巨大な電池と化していた。そしてその結果、腐食による金属の多大な減耗が生じ、場所によっては塗料だけが像を支えるという事態になっていた。骨組みのおよそ半分は腐食しており、アスベスト断熱材も粉々になっていた。特に、女神像の衣と足の下の格子梁は腐食がひどく、松明は「崩壊する危険性が明白」とまで報告された。
修復作業の規模の大きさが明らかになったことで、自由の女神修復のために設けられた委員会と基金は、資金集めに奔走することになった。3年間にわたる修復作業はとてもめまぐるしいものになったが、このプロジェクトには多くの企業が協力を申し出ており、NASAですら協力をしたほどである。最終的に、女神像はきちんと修復され、像の推定寿命は劇的にのびた。
レーガン大統領は、女神像の修復を、大統領としての自分の最大の功績の1つと宣言し、官民パートナーシップによる取り組みの手本である、と賞賛を惜しまなかった。ただ、修復の商業化に疑問を覚える人も当時は少なくなかった。マスメディアは、自由の女神が「高級娼婦」に成り下がるのではないかと批判をし、ほとんどの請負業者も修復作業のむずかしさから、この仕事を受けたがらなかった。
また、施工にかかる費用についても非難の的となった。あるアメリカの企業が、「自分たちなら同じ仕事を海外企業よりも3割安く請け負えるし、ニューヨークの労働者を雇うこともできる」と主張しても、今度は複数の組合が縄張り争いを繰り広げる事態となってしまい、なかなか収拾がつかない。さらに、この件に関する政治的争いも、醜さを増していくばかりであった。アメリカで起こった錆との戦いの歴史のなかで、女神像の修復ほど物議をかもしたものはなかったのである。
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