著者の原体験は、小学1年生のころに受けたいじめだった。男の子たちにぶたれ、トイレに入ると女の子たちに上から水をかけられた著者は、次第に不登校になっていった。しかし、母親が自分のことで悩んでいると知り、「学校に行って1時間でも自分の席に座ってみよう」と決意。少しずつ学校にいる時間を増やし、いじめを克服した。このときから、「がんばれば無理なことなんてない」と考えるようになった。
中学に上がり不良グループの一員となるも、仲間が麻薬や覚醒剤に手を出し、人生の坂を転げ落ちていくのを見て我に返った。その後、ひょんなことから柔道と出会い、のめりこんでいった。
柔道で1番を獲ることを志した著者は、大宮工業高校の「男子柔道部」に入部することを決意した。当時の埼玉県の女子柔道部といえば、埼玉栄が最強と目されていた。しかし、指導環境が整っている高校では、「自分の力だけで優勝した」とはいえないと考えた著者は、あえて修羅の道を選んだ。
だが、スピード勝負の女子柔道と、力で圧倒する男子柔道とでは形が全く異なる。雑巾のように投げられ続け、一時は「もう柔道なんてやりたくない!」と部活を逃げ出したこともあった。
それでも練習を重ねていった著者は、全国大会へのチケットをかけた最後の大会で埼玉栄をついに破り、48キロ以下級の埼玉代表となった。全日本ジュニアオリンピックでも、7位という結果を残した。
高校最後の試合を終えると、「自分の力は柔道以外でも発揮できるはずだ、社会を変えるようなことがしたい」という思いが沸いた。自分がいじめられたり、非行に走ったりしたのは、社会や環境の影響が大きかったと考えた著者は、社会を変える政治家になりたいと思い立ち、猛勉強をはじめた。
それまでほとんど勉強をしていなかったため、周囲の人たちは誰一人、著者が合格するとは思っていなかったが、「社会に必要とされるような人間になる」という信念だけが、著者を駆り立てた。結果、慶應義塾大学総合政策学部に無事合格。工業高校出身としては異例のことであった。
政治家を目指して議員のインターンや選挙活動の手伝いをするうち、「政治には経済がつきものだ」と気づいた著者は、経済政策のゼミ「竹中平蔵研究会」に加入。そこで「開発学」という学問に出会った。
途上国を先進国のように豊かにするための学問があると知った著者は、のめりこむようにして開発学を学んでいった。しかし、先進国が開発した技術を模倣すれば、途上国も先進国のように発展するという理論があるにもかかわらず、現実にはますます格差が広がるばかり。その違和感は、ワシントンにある国際機関で学生職員として働いたときにピークに達した。
ふわふわの絨毯が敷かれ、大きな油絵が飾ってある会議室。同僚のアメリカ人たちは、途上国になど行ったことがないし、行きたいとも思わないと話していた。予算の集計をしていても、2ドル程度の不一致なら気にも止められない。途上国で暮らす人びとにとって大きな金額である2ドルが、彼らを援助・融資するはずの国際機関で雑に扱われている――理想と現実とのギャップに、頭を悩ませる日々だった。
「途上国でどんな問題が起きているのか、援助が本当に役立っているのか、自分の目で確かめてみたい」。
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