ドナルド・トランプは、父フレッド・トランプと母メアリー=アンの次男として、1946年に生まれた。メアリー=アンは気が強く活発な女性で、パーティの中心的な存在だった。一方、不動産業を営んでいたフレッドは社交性に欠けていたが、家でも毎晩のように仕事の電話をするなど、熱心に仕事に打ち込んだ。
フレッドはよく、子どもたちをオフィスや建築現場に連れていった。そして、野心や規律、勤勉さの重要性を強調し、「食う側になれ」とくり返し教えた。とくに、幼いころから自分に似ていたドナルドには大きな期待を抱いており、「お前は王なのだ」と何度も言い聞かせた。
ただ、小学生のころのドナルドは並外れた問題児であり、自分の思い通りにするためであれば、「ありとあらゆる方法」を試すような子どもだった。フレッドもドナルドの素行不良には頭を悩ませ、ついに1959年、8年生になったドナルドを、軍隊式教育で知られる私立の全寮制男子校、ニューヨーク・ミリタリー・アカデミー(NYMA)に転入させる。
ドナルドがいた当時はNYMAの全盛期で、同級生にはウォール街の銀行家や中西部の工場経営者、南米の独裁者、マフィアの息子がいたほどだ。厳しい規律と競争社会に囲まれたNYMAという環境のなかで、「勝つことがすべてだ」と悟ったドナルドは、強靭さや男らしさがものを言う環境にうまく適応していく。野球にも精を出し、地元新聞の見出しを飾るほどのスター選手にもなった。ドナルドは今でもよく、このときの成功体験が自己形成のうえで重要な意味をもっていたと語る。
NYMAを卒業すると、ドナルドは地元ニューヨークのフォーダム大学に進学する。父の仕事を継ぐつもりでいたため、自由な時間はたいてい家業を手伝った。そして、不動産業というのは取引と策略の世界であり、負け組とは「自分には理解できないゲームで他人が金持ちになっていくのを、指をくわえて見ている人間」のことだと考えるようになった。
フレッドの経営する会社は、ニューヨーク屈指の不動産物件保有数を誇るまでに成長していった。だが、1950年代から60年代のアメリカの多くの都市は荒廃しており、ニューヨークもその例外ではなかった。人種対立の影響が長期化する一方、中心市街地では企業が倒産し、雇用が失われ、人々の姿が消えていった。70年代に入ると、ニューヨークの人口は10%減り、史上初の2桁の減少を記録した。月に100棟を超える物件が放棄され、犯罪も増え、あらゆる地区がめちゃくちゃになった。
ドナルドはこの頃、フォーダム大学からペンシルベニア大学に編入しており、不動産のことを学びながら、週末はニューヨークで父の会社の仕事をするという生活を送っていた。そして、マンハッタンを見据えながら、世界一有名な高層ビル群をどういう姿に変えてやろうかと構想を練っていた。自分の能力に絶対の自信があり、心から成功を確信していたドナルドにとって、それは期待でも夢でもなんでもなかった。問題は、実現するかどうかではなく、いつ実現するかだけだった。
ドナルドは好機を待ちながら、その間、エンターテインメント産業に手を出し、ブロードウェイのミュージカルを共同プロデュースする。作品の評価はいまひとつで、上映期間も短かったものの、「ブロードウェイのプロデューサー」という肩書きを手に入れたドナルドは、有名な会員制のレストランやバー、ディスコに出入りするようになる。そこで、年長の実力者たちや美女たちと顔見知りになり、自身の影響力を高めていった。
ニューヨークの観光産業は、1969年から1975年まで縮小を続けていたが、それでも毎年10億ドルを超える収入を市にもたらしていた。当時のニューヨーク市長だったエイブラハム・ビームは、観光の再活性化を決意し、1977年と1978年の予算に会議場開発を盛り込み、建築候補地を3カ所指定した。その最右翼だったペン・セントラル鉄道の操車場の開発権を押さえていたのがトランプだった。
トランプの権利獲得の経緯を見ると、これまで築いていた人脈、かたくなな態度、本人の個性を頼みとする彼のやり方がよくわかる。中身より格好を重要視するトランプ流の交渉術は、その後の人生でも繰り返し使われることになる。
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