その人生の大半を研究者として生きてきた著者は、あるとき京都産業大学の新学部設立に伴い、学部長になった。教育者として新入生たちに向かって話をするという新鮮な体験の中で、これまで考えなかったさまざまなことを考えざるを得なくなったという。
そこでもっとも強く感じたのは、新しく大学に入った新入生に「生徒」から「学生」になったという自覚が極めて薄いということだった。
高校までの初等中等教育では「正しい答えがある」ことが前提となった問題に取り組む。しかし実社会に出れば、そのような答えのある〈問題〉はほとんどない。問題にはひとつの答えがあるものだと思ってきた教育と、なにひとつ絶対的な答えがない実社会の間に設けられるべき緩衝帯となることが、大学の役割なのではないだろうか。
たとえば研究発表の場で、質問を一切しない人がいる。しかし話された内容をただひたすら覚えたり吸収しようとするだけでは、その知識は自分のものにならない。話された内容を自分の知の体系のなかに位置づけるためには「能動的に聞く」ということが必要である。そうすれば、外部からインプットされてくる内容と、既存の自らの知とのあいだに生まれる軋轢が、質問を促すはずだ。まさに質問から、すべてははじまるのである。
誰にも未来はわからない以上、私たちにこれから起こることは、すべて想定外のことであると言える。それを自分の力で乗り越えていくことが生きるということだとしたら、想定外の問題に自分で対処するための「知の体力」が必要になる。それは知識の習得以上に、考え方の訓練である。
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